カテゴリ: いろいろ
大町桂月の塩原新七不思議を巡る旅をしてきた
塩原温泉郷には多くの文人墨客が訪れています。
各地を放浪した歌人の大町桂月もその一人で、塩原新七不思議という短編紀行を記してます。今回はその新七不思議をなんちゃって現代語訳し、その足跡を辿ってみます。
※以下、黒大文字は塩原新七不思議を現代語訳したもので、普通のフォントは解説です。
※写真は3回別日で撮っています。なので紅葉の時期の写真もあれば新緑の時期の写真もあります。
【新七不思議その一】
桂月の友人と弟子が桂月に『塩原に行こう』と誘ってきた。季節は紅葉の時期でもなく避暑の時期でもない。何度も塩原に滞在していた桂月にとって『何故にこの時期に行くのか?』と疑問ではあったが、とりあえず言い出しっぺの友人に理由を聞いてみると『我らは塩原に行ったことがないので行ってみたい。金の工面はできている』と言う。『普段金を持たないお前がなんで金を持っているだ?そういえば塩原には七不思議というのがあるが、お前が金を持ってるのも不思議だな。塩原に行くのにちなみ、お前が旅費を工面できたことを塩原新七不思議の一つとしよう』と言うと皆が大爆笑した。

大町桂月は高知出身の歌人で、当時はかなり有名な人だったようです。終生、旅と酒を愛し、塩原温泉郷にも何度も足を運んでいますが、ある日、友人である松本道別と弟子の田中貢太郎に塩原への旅行に誘われ、その時の様子を塩原にある七不思議という伝承にちなんで『新七不思議』として記しています。

そのためか塩原では高知よりも桂月の扱いが手厚く、桂月の歌碑が残ってますし、塩原もの語り館では多くの著名な文人墨客が訪れているにも関わらず、わざわざ桂月のことをちゃんと紹介しています。上の写真は塩原もの語り館内にある桂月の紹介文で、下の写真は塩原もの語り館入口前にある桂月の句です。

【新七不思議その二】
上野駅を出発して西那須野駅で降り、昼食をすませて、塩原を目指して軽便鉄道に乗る。車窓から見える山々や名所旧跡を桂月は得意げに説明するが、弟子に『あの有名な乃木将軍の別荘はどこだ?』と聞かれると『それは...知らん...』と頭をかいた。
関谷という場所で軽便鉄道を降り、徒歩で福渡温泉まで移動。この間も桂月は得意そうに名所旧跡を説明する。『この川が箒川、あれが回顧橋、その先に大爆がある。ほら、ここから回顧ってみなよ。回顧ってみると大爆が見えるから回顧橋と名付けられたんだ』『そして大網温泉、ここは紳士には適さない』『これが白雲洞、龍化爆はこの下にある。あれは材木岩、これは五色岩』『この屋敷は皇室の塩原御用邸、そして目の前の一帯が福渡温泉だよ』と得意げに喋っていると、有名な宿である和泉屋の者が出迎えてきて『先生方が来られている事は聞いております。ささ、こちらへ』と案内された。
みすぼらしい服装の三人、しかもこれまで優待された事などないのにこの優遇、一体何事か?と思いながら宿の部屋に通されると、宿の者が『この部屋は皇室の方々がお泊まりになった部屋でございます』と言った。ここで桂月が恐れ慄き『我らがこんなに優待されるなんて今まで一度もない。これを七不思議と言わずして何を言わんや!』と言うと、弟子たちも納得の様子で頷いた。

上の写真は回顧橋へ通ずる駐車場脇にある軽便鉄道の説明板です。桂月は今で言うJR上野駅から東北本線の西那須野駅に降り、そこから今は廃線になっている塩原軌道に乗ってここまで来たようです。西那須野駅周辺には塩原を開拓した三島子爵ゆかりの場所や、松方正義、大山巌、山縣有朋の別荘があり、松方正義の別荘跡が現在の三本松牧場になっています。また塩原には多くの文化人が訪れてますが尾崎紅葉もそのうちの一人で、この説明板の側に尾崎紅葉の歌碑もあります。下の写真は回顧橋から眺めた大爆・回顧の瀧です。
何故に桂月が『そして大網温泉、ここは紳士には適さない』と言ったのか分かりませんが、現在の大網温泉には守湯田中屋という宿が一軒だけあります。実はこの宿は日本秘湯の会に属する名旅館でして、箒川沿いにある露天岩風呂が有名(現在は露天岩風呂は休止中)。ここを過ぎると白雲洞(現在は無い)、龍化爆、材木岩、五色岩などの名所があります。

大網温泉から福渡温泉の間くらいのところに皇室の塩原御用邸がありました。元々は三島子爵の別荘でしたが大正天皇の避暑地として献上し、戦後に療養施設になった後に更地になりました。ここがその跡地です。

当時はこの様な御用邸が建てられていたそうです。



ちなみに大正天皇が指揮して建てた御用邸の建物が近くに移築され天皇の間記念公園として公開されています。



ここが和泉屋です。数多くの文人墨客に愛された宿でしたが数年前に廃業しました。地下トンネルで通ずる別館に文人墨客ゆかりの品々が展示されていたそうですが今は見ることも出来ず残念です。写真に写っている赤ポストはフクちゃんポストと言い、一世を風靡した漫画フクちゃんと福渡のフクを掛けて女将が名付けたポストです(きちんと作者の横山隆一の許可を受けています)。ポストの横には説明板があるんですが日光の影響でか日焼けして読めなくなっています。さて、では桂月の話に戻りましょうか。


【新七不思議その三】
和泉屋でひとっ風呂浴びたが日が暮れるにはまだ早いので外出することにした。天狗巌を眺めたり、蒲生氏郷が野立てしたという野立石を眺め、三島子爵の記念碑や、七つ岩を眺めた後、和泉屋に戻って酒を飲むことにした。ところが弟子が湯あたりしたようで酒を口にしようとしない。こいつが酒を飲もうとしないなんてあり得ないので、これを第三の新七不思議としようと言うと、皆が頷いた。ここで桂月が一句
『名にし負う 箒川原にゆあみして 心のちりもはらわれにけり』
すると友人が『箒とチリをかけるのは何となく単純だなぁ』と言った。ならばと桂月は漢詩を読み出した。
醉倚欄干意気豪 奔流噴雪萬雷號
一聲杜宇不知処 天狗巌頭北斗高
だがこれも友人に『語呂が悪いんじゃないか?』と言われたので、桂月は考え込んだあげく不貞寝してしまった。

上の写真正面に見える岩肌が天狗巌です。下の写真が野立岩で蒲生氏郷がこの岩の上で野立をしたのでその名が付いたそうです。


野立岩から天狗巌を眺めるとこんな感じ。

野立岩を過ぎると塩釜温泉地区に入ります。ここに三島子爵の記念碑があります。



ちょうど三島子爵記念碑の反対側の川沿いに七つ岩があります。残念ながら道沿いからは見え難いのですが、住居際の通路から川に降りると迫力のある七つ岩を眺められます。



桂月が読んだ『名にし負う 箒川原にゆあみして 心のちりもはらわれにけり』の句は句碑となって塩原に2つ建てられています。まず一つは古町温泉の共同浴場・もみじ湯の側にあります。

もう一つの句碑は門前温泉の蓬莱橋付近にあります。ちなみに桂月が読んだ漢詩『醉倚欄干意気豪 奔流噴雪萬雷號 一聲杜宇不知処 天狗巌頭北斗高』を意訳すると『酒でほろ酔いになり窓の欄干に腰をかけると、眼下に流れる箒川が轟々と轟いている。何処からともなくホトトギスの囀りが聞こえ、天狗巌の頂上には北斗七星が輝いている』です。単調なのかどうなのかは素人のワタクシには分かりませんが、とても風情を感じます。では新七不思議の話に戻りましょう。


【新七不思議その四】
翌朝は雨だった。カッパを着込んで塩釜温泉を後にし畑下温泉へ。すると、ある宿の前で桂月が『この宿で尾崎紅葉が金色夜叉を執筆したんだよ』と物知り風に言った。
歩みを進めて門前温泉へ行き、そこから蓬莱橋を渡って古町温泉へ。さらに10キロほど歩いて、大杉のある塩原八幡宮へたどり着いた。『見よ!この大杉を!大小二つの杉がくっついているだけでなく、枝葉が全て下を向いている。これが有名な塩原七不思議の一つ逆杉だ』と桂月が説明すると、弟子が『別に不思議じゃなくない?それより我らの新七不思議の方がよっぽど不思議でしょう?』と言う。『そうは言うが、新七不思議はまだ三つしかないじゃないか...』と桂月が弟子に言おうとしたところ、こうもり傘を差した弟子の姿が目に入り仰天した。『こいつ、灼熱の土佐高知の漁師町に生まれ、日焼けで肌は真っ黒、上京するまでこうもり傘はおろか帽子すら持ったことがない粗野な男なのに何故にこうもり傘を差してるんだ!?こうもり傘を持っている事にも驚きだが、それを差すなんて不思議で仕方がない。これを新七不思議の四つ目としよう...』

塩釜温泉から2キロほど進むと畑下温泉に辿り着きます。ここには尾崎紅葉が金色夜叉を執筆した宿・佐野屋(現・清琴楼)が今も営業しています。

本館は尾崎紅葉が宿泊した当時のままの建物だそうです。

尾崎紅葉の胸像。

畑下温泉から1キロ無いほど進むと門前温泉に辿り着きます。ここは塩原温泉郷の繁華街で土産物屋や飲食店が並んでおり、その名の由来となった妙雲寺もあります。また、門前温泉の隣に古町温泉があり、そこも繁華街となっています。

蓬莱橋を渡ると古町温泉に辿り着きます。ここにも塩原温泉郷の繁華街があり、ご当地B級グルメのスープ焼きそばを食べられる食堂があります。また、塩原もの語り館では桂月をはじめ塩原を訪れた多くの歌人を紹介しています。

塩原もの語り館の箒川を挟さんだ対岸には共同浴場のもみじ湯があります。
そして道なりに進んで中塩原温泉まで進むと、逆杉のある塩原八幡宮に辿り着きます。桂月が形容した様に確かに二つの杉が合体してて枝が逆さになってました。



【新七不思議その五】
源三窟に立ち寄った。入口はまあまあ広いが中に入ると狭く、立ってられないほど。奥に行けば行くほど這ずり寄らなければ進めない。しかも奇形の鍾乳石があちこちから出ており、頭を打ったりして痛いよほんとにもう。そして行き止まりに来たので引き返し、源三窟の言われを聞くことに。なんでも、源三位頼政の孫・有綱が戦に敗れこの地に逃れてきたが、追っ手に攻められこの洞窟の中で最期を遂げたらしい。
午後になり目的の塩の湯温泉へ行くことに。道中で桂月はここでも『この寺は平重盛の娘・妙雲尼が開いた妙雲寺で、有名な仏像がある』と得意げに説明する。続けて『有名な花魁の高尾太夫の端切れも所蔵してるけど、見ていく?』と友人に尋ねると『いや、腹減ったから飯食いに行こう』と言う。歴史ものが好きな友人が興味を示さないなんて不思議でしかたがない。これを新七不思議の五つ目としよう。

この日の桂月一行の道順からすると、源三窟は塩原八幡宮よりも手前にあるので、桂月達は源三窟を通り過ぎて先に塩原八幡宮へ参拝したようです。
源三窟は源三位頼政の孫の有綱が、戦で敗走した際にこの洞窟に隠れていたところ、川に流れた米のとぎ汁が原因で追っ手に見つかり攻められ最後を遂げた場所と言われています。

ちなみに有綱は源頼朝の命により土佐へ赴いて蓮池氏を滅ぼした人物です。土佐出身の桂月や弟子(田中貢太郎)は感慨深かったかもしれません。

源三窟を見学した桂月達は塩ノ湯温泉へ向かいますが、その道中で妙雲寺に立ち寄ろうとします。妙雲寺は門前温泉にありますが、そもそも門前温泉は妙雲寺の門前町として栄えたため門前温泉と呼ばれる様になったそうです。ちなみに境内には尾崎紅葉の句碑、夏目漱石の詩碑、斎藤茂吉の歌碑などがあります(聞いた話では大町桂月の漢詩碑もあるそうですが見つけられませんでした)。また、妙雲寺には高尾太夫ゆかりの品があると言っていましたが、それもそのはず、高尾太夫は塩原温泉郷の一つである湯元温泉出身なのです。

ちなみに妙雲寺には高尾太夫の墓がありますが、塩釜温泉(塩の湯温泉ではない)の明賀屋の駐車場には高尾太夫の顕彰碑があります。


【新七不思議その六】
塩釜まで戻って、塩湧橋を渡り、鹿股川を遡る。この橋から塩の湯温泉までの道は『お兼道』と言い、お兼という女性が自費で開いた道だ。お兼はこの土地で生まれ豪商の元に嫁いだが、殖産の才能があり莫大な富を稼ぎ、それだけでなく数百の従業員を我が子の様に接するという慈愛に満ちた人だった。そのお兼は死の間際に私財を投げ打って道を開くよう遺言し、そのお陰で道が開かれた。三島子爵は栃木、山形、福島に道を開いたが、それは税金を使ってでありお兼の様に私費ではない。お兼の心意気や天晴れである。塩原は高尾太夫を輩出したことで有名であるが、今、お兼の功績が表彰され再び塩原が脚光を浴びるだろう。
塩ノ湯に到着して明賀屋旅館に入ると『和泉屋から連絡を受けています』と言われ、ここでも一番良い部屋に通された。長い廊下を渡って温泉へ行くと、渓流に接した温泉があり、自然の穴が湯船になっている所もある。川両岸の岩肌が広大で、かつ渓流が屈曲していることもあり、まるで前後左右を絶壁と樹木で囲まれている様。そして天を仰げば、何も遮るもののない空を眺められる。これはまるで、洞の中の別世界にいる様だ。
湯上がり後に酒を飲み、食事を終わらせて、散歩に。鹿股川を遡り深山に分け入ると雄飛、咆哮、霹靂、雷霆、素練、萬五郎という滝があるらしく、それらを見に行くことにした。桂月は『雄飛瀑の滝壺の見事なること、塩原の名瀑数あれど、これには勝てない』とまた得意げに言いつつ山を登るが、いつまで経っても辿り着けず、弟子と友人は『まだか?まだ着かないのか?』と問う。しばらく進むと橋が落ちていた。痩せてる桂月は難なく崖を渡れ、友人もなんとか渡れたが、デブの弟子は『おれ、無理!』と躊躇した。しかし、さすが日本男児、まるでカタツムリの様にヌルヌル地面を這って渡って来た。それから暫く歩いたが、いっこうに着く気配がない。ここで桂月は『たとえ雄飛瀑にたどり着いても帰りには日が暮れる。暗闇の中この道を帰るのは危険だ』と思い『帰ろう』と言うと、弟子と友人は『ええっーーー!ここまで来て!?』っと奇声をあげた。旅を趣味とし始めて三十数年、目的地にたどり着かなかった事などこれまで一度もない。今回、たどり着けなかったのが不思議で仕方がない。これを新七不思議の六つ目としよう。

お兼道は現在県道56号線となっています。お兼道が開かれなければ未だに塩の湯温泉までたどり着けなかったでしょう。

お兼の顕彰碑です。写真では見えないですが、うっすらとお兼の姿が刻まれています。

各地を放浪した歌人の大町桂月もその一人で、塩原新七不思議という短編紀行を記してます。今回はその新七不思議をなんちゃって現代語訳し、その足跡を辿ってみます。
※以下、黒大文字は塩原新七不思議を現代語訳したもので、普通のフォントは解説です。
※写真は3回別日で撮っています。なので紅葉の時期の写真もあれば新緑の時期の写真もあります。
【新七不思議その一】
桂月の友人と弟子が桂月に『塩原に行こう』と誘ってきた。季節は紅葉の時期でもなく避暑の時期でもない。何度も塩原に滞在していた桂月にとって『何故にこの時期に行くのか?』と疑問ではあったが、とりあえず言い出しっぺの友人に理由を聞いてみると『我らは塩原に行ったことがないので行ってみたい。金の工面はできている』と言う。『普段金を持たないお前がなんで金を持っているだ?そういえば塩原には七不思議というのがあるが、お前が金を持ってるのも不思議だな。塩原に行くのにちなみ、お前が旅費を工面できたことを塩原新七不思議の一つとしよう』と言うと皆が大爆笑した。

大町桂月は高知出身の歌人で、当時はかなり有名な人だったようです。終生、旅と酒を愛し、塩原温泉郷にも何度も足を運んでいますが、ある日、友人である松本道別と弟子の田中貢太郎に塩原への旅行に誘われ、その時の様子を塩原にある七不思議という伝承にちなんで『新七不思議』として記しています。

そのためか塩原では高知よりも桂月の扱いが手厚く、桂月の歌碑が残ってますし、塩原もの語り館では多くの著名な文人墨客が訪れているにも関わらず、わざわざ桂月のことをちゃんと紹介しています。上の写真は塩原もの語り館内にある桂月の紹介文で、下の写真は塩原もの語り館入口前にある桂月の句です。

【新七不思議その二】
上野駅を出発して西那須野駅で降り、昼食をすませて、塩原を目指して軽便鉄道に乗る。車窓から見える山々や名所旧跡を桂月は得意げに説明するが、弟子に『あの有名な乃木将軍の別荘はどこだ?』と聞かれると『それは...知らん...』と頭をかいた。
関谷という場所で軽便鉄道を降り、徒歩で福渡温泉まで移動。この間も桂月は得意そうに名所旧跡を説明する。『この川が箒川、あれが回顧橋、その先に大爆がある。ほら、ここから回顧ってみなよ。回顧ってみると大爆が見えるから回顧橋と名付けられたんだ』『そして大網温泉、ここは紳士には適さない』『これが白雲洞、龍化爆はこの下にある。あれは材木岩、これは五色岩』『この屋敷は皇室の塩原御用邸、そして目の前の一帯が福渡温泉だよ』と得意げに喋っていると、有名な宿である和泉屋の者が出迎えてきて『先生方が来られている事は聞いております。ささ、こちらへ』と案内された。
みすぼらしい服装の三人、しかもこれまで優待された事などないのにこの優遇、一体何事か?と思いながら宿の部屋に通されると、宿の者が『この部屋は皇室の方々がお泊まりになった部屋でございます』と言った。ここで桂月が恐れ慄き『我らがこんなに優待されるなんて今まで一度もない。これを七不思議と言わずして何を言わんや!』と言うと、弟子たちも納得の様子で頷いた。

上の写真は回顧橋へ通ずる駐車場脇にある軽便鉄道の説明板です。桂月は今で言うJR上野駅から東北本線の西那須野駅に降り、そこから今は廃線になっている塩原軌道に乗ってここまで来たようです。西那須野駅周辺には塩原を開拓した三島子爵ゆかりの場所や、松方正義、大山巌、山縣有朋の別荘があり、松方正義の別荘跡が現在の三本松牧場になっています。また塩原には多くの文化人が訪れてますが尾崎紅葉もそのうちの一人で、この説明板の側に尾崎紅葉の歌碑もあります。下の写真は回顧橋から眺めた大爆・回顧の瀧です。

何故に桂月が『そして大網温泉、ここは紳士には適さない』と言ったのか分かりませんが、現在の大網温泉には守湯田中屋という宿が一軒だけあります。実はこの宿は日本秘湯の会に属する名旅館でして、箒川沿いにある露天岩風呂が有名(現在は露天岩風呂は休止中)。ここを過ぎると白雲洞(現在は無い)、龍化爆、材木岩、五色岩などの名所があります。

大網温泉から福渡温泉の間くらいのところに皇室の塩原御用邸がありました。元々は三島子爵の別荘でしたが大正天皇の避暑地として献上し、戦後に療養施設になった後に更地になりました。ここがその跡地です。

当時はこの様な御用邸が建てられていたそうです。



ちなみに大正天皇が指揮して建てた御用邸の建物が近くに移築され天皇の間記念公園として公開されています。



ここが和泉屋です。数多くの文人墨客に愛された宿でしたが数年前に廃業しました。地下トンネルで通ずる別館に文人墨客ゆかりの品々が展示されていたそうですが今は見ることも出来ず残念です。写真に写っている赤ポストはフクちゃんポストと言い、一世を風靡した漫画フクちゃんと福渡のフクを掛けて女将が名付けたポストです(きちんと作者の横山隆一の許可を受けています)。ポストの横には説明板があるんですが日光の影響でか日焼けして読めなくなっています。さて、では桂月の話に戻りましょうか。


【新七不思議その三】
和泉屋でひとっ風呂浴びたが日が暮れるにはまだ早いので外出することにした。天狗巌を眺めたり、蒲生氏郷が野立てしたという野立石を眺め、三島子爵の記念碑や、七つ岩を眺めた後、和泉屋に戻って酒を飲むことにした。ところが弟子が湯あたりしたようで酒を口にしようとしない。こいつが酒を飲もうとしないなんてあり得ないので、これを第三の新七不思議としようと言うと、皆が頷いた。ここで桂月が一句
『名にし負う 箒川原にゆあみして 心のちりもはらわれにけり』
すると友人が『箒とチリをかけるのは何となく単純だなぁ』と言った。ならばと桂月は漢詩を読み出した。
醉倚欄干意気豪 奔流噴雪萬雷號
一聲杜宇不知処 天狗巌頭北斗高
だがこれも友人に『語呂が悪いんじゃないか?』と言われたので、桂月は考え込んだあげく不貞寝してしまった。

上の写真正面に見える岩肌が天狗巌です。下の写真が野立岩で蒲生氏郷がこの岩の上で野立をしたのでその名が付いたそうです。


野立岩から天狗巌を眺めるとこんな感じ。

野立岩を過ぎると塩釜温泉地区に入ります。ここに三島子爵の記念碑があります。



ちょうど三島子爵記念碑の反対側の川沿いに七つ岩があります。残念ながら道沿いからは見え難いのですが、住居際の通路から川に降りると迫力のある七つ岩を眺められます。




桂月が読んだ『名にし負う 箒川原にゆあみして 心のちりもはらわれにけり』の句は句碑となって塩原に2つ建てられています。まず一つは古町温泉の共同浴場・もみじ湯の側にあります。

もう一つの句碑は門前温泉の蓬莱橋付近にあります。ちなみに桂月が読んだ漢詩『醉倚欄干意気豪 奔流噴雪萬雷號 一聲杜宇不知処 天狗巌頭北斗高』を意訳すると『酒でほろ酔いになり窓の欄干に腰をかけると、眼下に流れる箒川が轟々と轟いている。何処からともなくホトトギスの囀りが聞こえ、天狗巌の頂上には北斗七星が輝いている』です。単調なのかどうなのかは素人のワタクシには分かりませんが、とても風情を感じます。では新七不思議の話に戻りましょう。


【新七不思議その四】
翌朝は雨だった。カッパを着込んで塩釜温泉を後にし畑下温泉へ。すると、ある宿の前で桂月が『この宿で尾崎紅葉が金色夜叉を執筆したんだよ』と物知り風に言った。
歩みを進めて門前温泉へ行き、そこから蓬莱橋を渡って古町温泉へ。さらに10キロほど歩いて、大杉のある塩原八幡宮へたどり着いた。『見よ!この大杉を!大小二つの杉がくっついているだけでなく、枝葉が全て下を向いている。これが有名な塩原七不思議の一つ逆杉だ』と桂月が説明すると、弟子が『別に不思議じゃなくない?それより我らの新七不思議の方がよっぽど不思議でしょう?』と言う。『そうは言うが、新七不思議はまだ三つしかないじゃないか...』と桂月が弟子に言おうとしたところ、こうもり傘を差した弟子の姿が目に入り仰天した。『こいつ、灼熱の土佐高知の漁師町に生まれ、日焼けで肌は真っ黒、上京するまでこうもり傘はおろか帽子すら持ったことがない粗野な男なのに何故にこうもり傘を差してるんだ!?こうもり傘を持っている事にも驚きだが、それを差すなんて不思議で仕方がない。これを新七不思議の四つ目としよう...』

塩釜温泉から2キロほど進むと畑下温泉に辿り着きます。ここには尾崎紅葉が金色夜叉を執筆した宿・佐野屋(現・清琴楼)が今も営業しています。

本館は尾崎紅葉が宿泊した当時のままの建物だそうです。

尾崎紅葉の胸像。

畑下温泉から1キロ無いほど進むと門前温泉に辿り着きます。ここは塩原温泉郷の繁華街で土産物屋や飲食店が並んでおり、その名の由来となった妙雲寺もあります。また、門前温泉の隣に古町温泉があり、そこも繁華街となっています。

蓬莱橋を渡ると古町温泉に辿り着きます。ここにも塩原温泉郷の繁華街があり、ご当地B級グルメのスープ焼きそばを食べられる食堂があります。また、塩原もの語り館では桂月をはじめ塩原を訪れた多くの歌人を紹介しています。

塩原もの語り館の箒川を挟さんだ対岸には共同浴場のもみじ湯があります。
そして道なりに進んで中塩原温泉まで進むと、逆杉のある塩原八幡宮に辿り着きます。桂月が形容した様に確かに二つの杉が合体してて枝が逆さになってました。



【新七不思議その五】
源三窟に立ち寄った。入口はまあまあ広いが中に入ると狭く、立ってられないほど。奥に行けば行くほど這ずり寄らなければ進めない。しかも奇形の鍾乳石があちこちから出ており、頭を打ったりして痛いよほんとにもう。そして行き止まりに来たので引き返し、源三窟の言われを聞くことに。なんでも、源三位頼政の孫・有綱が戦に敗れこの地に逃れてきたが、追っ手に攻められこの洞窟の中で最期を遂げたらしい。
午後になり目的の塩の湯温泉へ行くことに。道中で桂月はここでも『この寺は平重盛の娘・妙雲尼が開いた妙雲寺で、有名な仏像がある』と得意げに説明する。続けて『有名な花魁の高尾太夫の端切れも所蔵してるけど、見ていく?』と友人に尋ねると『いや、腹減ったから飯食いに行こう』と言う。歴史ものが好きな友人が興味を示さないなんて不思議でしかたがない。これを新七不思議の五つ目としよう。

この日の桂月一行の道順からすると、源三窟は塩原八幡宮よりも手前にあるので、桂月達は源三窟を通り過ぎて先に塩原八幡宮へ参拝したようです。
源三窟は源三位頼政の孫の有綱が、戦で敗走した際にこの洞窟に隠れていたところ、川に流れた米のとぎ汁が原因で追っ手に見つかり攻められ最後を遂げた場所と言われています。

ちなみに有綱は源頼朝の命により土佐へ赴いて蓮池氏を滅ぼした人物です。土佐出身の桂月や弟子(田中貢太郎)は感慨深かったかもしれません。

源三窟を見学した桂月達は塩ノ湯温泉へ向かいますが、その道中で妙雲寺に立ち寄ろうとします。妙雲寺は門前温泉にありますが、そもそも門前温泉は妙雲寺の門前町として栄えたため門前温泉と呼ばれる様になったそうです。ちなみに境内には尾崎紅葉の句碑、夏目漱石の詩碑、斎藤茂吉の歌碑などがあります(聞いた話では大町桂月の漢詩碑もあるそうですが見つけられませんでした)。また、妙雲寺には高尾太夫ゆかりの品があると言っていましたが、それもそのはず、高尾太夫は塩原温泉郷の一つである湯元温泉出身なのです。

ちなみに妙雲寺には高尾太夫の墓がありますが、塩釜温泉(塩の湯温泉ではない)の明賀屋の駐車場には高尾太夫の顕彰碑があります。


【新七不思議その六】
塩釜まで戻って、塩湧橋を渡り、鹿股川を遡る。この橋から塩の湯温泉までの道は『お兼道』と言い、お兼という女性が自費で開いた道だ。お兼はこの土地で生まれ豪商の元に嫁いだが、殖産の才能があり莫大な富を稼ぎ、それだけでなく数百の従業員を我が子の様に接するという慈愛に満ちた人だった。そのお兼は死の間際に私財を投げ打って道を開くよう遺言し、そのお陰で道が開かれた。三島子爵は栃木、山形、福島に道を開いたが、それは税金を使ってでありお兼の様に私費ではない。お兼の心意気や天晴れである。塩原は高尾太夫を輩出したことで有名であるが、今、お兼の功績が表彰され再び塩原が脚光を浴びるだろう。
塩ノ湯に到着して明賀屋旅館に入ると『和泉屋から連絡を受けています』と言われ、ここでも一番良い部屋に通された。長い廊下を渡って温泉へ行くと、渓流に接した温泉があり、自然の穴が湯船になっている所もある。川両岸の岩肌が広大で、かつ渓流が屈曲していることもあり、まるで前後左右を絶壁と樹木で囲まれている様。そして天を仰げば、何も遮るもののない空を眺められる。これはまるで、洞の中の別世界にいる様だ。
湯上がり後に酒を飲み、食事を終わらせて、散歩に。鹿股川を遡り深山に分け入ると雄飛、咆哮、霹靂、雷霆、素練、萬五郎という滝があるらしく、それらを見に行くことにした。桂月は『雄飛瀑の滝壺の見事なること、塩原の名瀑数あれど、これには勝てない』とまた得意げに言いつつ山を登るが、いつまで経っても辿り着けず、弟子と友人は『まだか?まだ着かないのか?』と問う。しばらく進むと橋が落ちていた。痩せてる桂月は難なく崖を渡れ、友人もなんとか渡れたが、デブの弟子は『おれ、無理!』と躊躇した。しかし、さすが日本男児、まるでカタツムリの様にヌルヌル地面を這って渡って来た。それから暫く歩いたが、いっこうに着く気配がない。ここで桂月は『たとえ雄飛瀑にたどり着いても帰りには日が暮れる。暗闇の中この道を帰るのは危険だ』と思い『帰ろう』と言うと、弟子と友人は『ええっーーー!ここまで来て!?』っと奇声をあげた。旅を趣味とし始めて三十数年、目的地にたどり着かなかった事などこれまで一度もない。今回、たどり着けなかったのが不思議で仕方がない。これを新七不思議の六つ目としよう。

お兼道は現在県道56号線となっています。お兼道が開かれなければ未だに塩の湯温泉までたどり着けなかったでしょう。

お兼の顕彰碑です。写真では見えないですが、うっすらとお兼の姿が刻まれています。

桂月一行が入った明賀屋は現在する宿です。当時よりは川に接してはないですが、一応は川に面した露天風呂があり、なかなかに絶景です。そして皆が散歩で見に行った滝ですが、そこそこ山に分け入らないと行けないみたいなので現地に行くのは諦めました。
【新七不思議その七】
下山すると和泉屋の番頭が明賀屋まで迎えに来ていた。明賀屋に挨拶し、和泉屋まで戻る途中で親抱松を見学。この松は、まるで子供を抱いているかの様に左右の枝が幹の前に広がっている事から、そう名付けられたらしい。この松を見た品川弥二郎は、
大網温泉の湯壺も先日の災害で入れなくなり、数日前に復旧したものの宿泊者限定となりました。場所が川に近いのでここもいつ入れなくなるか分からないので行けるうちに行きましょう。
【新七不思議その七】
下山すると和泉屋の番頭が明賀屋まで迎えに来ていた。明賀屋に挨拶し、和泉屋まで戻る途中で親抱松を見学。この松は、まるで子供を抱いているかの様に左右の枝が幹の前に広がっている事から、そう名付けられたらしい。この松を見た品川弥二郎は、
『親抱の 松に昔忍ばれて 思わずしぼる 旅衣かな』
と詠んだそうだが、桂月も友人もその心境は分かる。弟子はまだ両親が健在だからまだ分からないだろう。
和泉屋に二泊した。ついに東京に帰らなければならない。友人と弟子は金が尽きるまで泊まるらしい。こいつらがそんなに金を持ってるなんて今まで無かったし、不思議でたまらない。これを新七不思議の第七としても良いけど、本当の不思議はこの後に起こるかもしれない。
番頭と友人と弟子が、桂月を見送るためしばらくついて来た。白雲洞を過ぎ、竜化瀑が見える所へたどり着き、ここで番頭が持ってきたビールを皆で飲んだ。そして大網温泉の湯壺が見える辺りまで来て、ここで皆と別れた。
回顧橋の辺りでホトトギスの声が聞こえた。弟子も友人もホトトギスの鳴き声を聞いたことがない。『一度で良いから聞いてみたいなぁ』と言っていたのを思い出し、思わず振り向けば、また一声鳴いた。
紀行文に出てきた親抱松も白雲洞も現在は無く、ここにあったのかと想像するしか仕方ありません。今ある名所旧跡も自然の風化で見れなくなるかもしれないので見れるうちに行くのが正解だと思います。大網温泉の湯壺も先日の災害で入れなくなり、数日前に復旧したものの宿泊者限定となりました。場所が川に近いのでここもいつ入れなくなるか分からないので行けるうちに行きましょう。
ワイフ&ハズバンド・モーニング
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ちひろ珈琲
鳴子峡に紅葉狩りに行ってきた
宮城県の鳴子温泉にある鳴子峡に紅葉狩りに行ってきました。
行ったのは10月末。平日の朝だったので観光客はチラホラしかいませんでした。けど何かの撮影隊が来て打ち合わせを始めたので、さっさとその場を立ち去りました。女優らしき人もいたけどあれ誰だろう?

険しい岩肌とグラデーションした紅葉がきれい。

右上に見える平家の建物が1枚目の写真を撮った場所です。つまりこの写真を撮っているのは1枚目の写真に写っている橋の上です。

紅葉だけでなく岩肌も見事。

なんでも錦秋の鳴子峡を走る電車を撮れるスポットがあって、そこが有名らしいんですが、どこなのか分かりませんでした。恐らく谷まで降りて行った辺りにあるんでしょうけど探して行くのも面倒くさかったので諦めました...
行ったのは10月末。平日の朝だったので観光客はチラホラしかいませんでした。けど何かの撮影隊が来て打ち合わせを始めたので、さっさとその場を立ち去りました。女優らしき人もいたけどあれ誰だろう?

険しい岩肌とグラデーションした紅葉がきれい。

右上に見える平家の建物が1枚目の写真を撮った場所です。つまりこの写真を撮っているのは1枚目の写真に写っている橋の上です。

紅葉だけでなく岩肌も見事。

なんでも錦秋の鳴子峡を走る電車を撮れるスポットがあって、そこが有名らしいんですが、どこなのか分かりませんでした。恐らく谷まで降りて行った辺りにあるんでしょうけど探して行くのも面倒くさかったので諦めました...
日塩もみじラインに紅葉狩りに行ってきた
日塩もみじラインが紅葉の見頃だというので塩原→日光ルートで行ってきました。
けどその前に、せっかく塩原まで来たので塩原で紅葉狩り出来そうなところを巡ります。まずは回顧の瀧です。


次に天狗岩です。赤、黄、緑のグラデーションが綺麗です。欲を言えば、もっと色の違いが際立ってたら最高なんですけどね。

福渡温泉・和泉屋のフクちゃんポスト前です。

野立岩。


ちなみに6月?にきた時はこんな感じでした。見比べると紅葉してるのが分かります。


七つ岩吊り橋から。

紅葉橋。

日塩もみじラインに入って新湯温泉に寄ります。この間には紅葉してるっちゃあしてるけど、たぶん楓やブナだろう黄色や緑色が多く赤色は少なかったです。

ハンターマウンテンの脇道に真っ赤に燃えてる紅葉が立ち並んでましたが、それ以外は赤が少なく黄色と緑色メインの紅葉でした。来週末あたりが最盛期じゃないでしょうかね。
けどその前に、せっかく塩原まで来たので塩原で紅葉狩り出来そうなところを巡ります。まずは回顧の瀧です。


次に天狗岩です。赤、黄、緑のグラデーションが綺麗です。欲を言えば、もっと色の違いが際立ってたら最高なんですけどね。

福渡温泉・和泉屋のフクちゃんポスト前です。

野立岩。


ちなみに6月?にきた時はこんな感じでした。見比べると紅葉してるのが分かります。


七つ岩吊り橋から。

紅葉橋。

日塩もみじラインに入って新湯温泉に寄ります。この間には紅葉してるっちゃあしてるけど、たぶん楓やブナだろう黄色や緑色が多く赤色は少なかったです。

ハンターマウンテンの脇道に真っ赤に燃えてる紅葉が立ち並んでましたが、それ以外は赤が少なく黄色と緑色メインの紅葉でした。来週末あたりが最盛期じゃないでしょうかね。