カテゴリ: 庭園
浜離宮恩賜庭園
浜離宮恩賜庭園は徳川家光の三男である松平綱重が別邸と庭園を建てたのに始まります。綱重の死後はその子である徳川家宣が引き継ぎますが、彼は六代将軍に内定したため江戸城に移り住む事になり、邸宅と庭は当時の将軍だった徳川綱吉が引き継いで、以後、徳川将軍家の庭園として明治維新まで続きました。明治になってからは政府の接遇の場として、東京都に譲渡されてからは特別名勝庭園として維持され現在に至っています。
庭園のあるこの地は元々は海でしたが、徳川家康が江戸の都市開発と防備の一環として埋め立てて出来ました。そのため立派な堀や石垣が沢山あり、一見するとまるで城の様です。
庭園は所有者が変わる度にその呼び名も変わりました。初めに造営した松平綱重の時代は浜屋敷と呼ばれてましたが、その子の徳川家宣が将軍に内定すると浜御殿と呼ばれる様になり、明治になって宮内庁が管理する様になると浜離宮と呼ばれました。現在は浜離宮恩賜庭園または旧浜離宮庭園と呼ばれています。
庭園は右の東京湾、上の築地川、下の汐留川に挟まれています。築地川に繋がっているエル字のものは内堀で、その斜め下にある池は庚申堂鴨場、さらにその下に見える2つの池(本当は1つに繋がっています)は潮入の池、左下にある池は新銭座鴨場と言います。左上の築地川にかかっている橋が一番最初の写真に写っている橋で、その下に広がる緑地は延遼館跡、内堀の側にあるピンク色の辺りは花畑です。ちなみに2つの鴨場は林に囲まれており見ることが出来ませんでした。
庭園入口を通ると直ぐに三百年の松があります。これは徳川家宣が植えた黒松で、横幅約18メートル、高さ約10メートルあるそうです。複数本がまとまって一本に見えているのではなく、一本の松の木がこんなに広がっているのです。圧巻。植えてから約300年経っているので三百年の松と銘々されているそうです。
三百年の松を通り過ぎてお花畑に通じる小橋を渡ります。この川のようなものが築地川と繋がっている内堀です。
お花畑やその周囲の広場には昔は穀物倉庫や畑があったそうです。ここで採れた穀物などは内堀を使って舟で運搬していたのでしょうね。
お花畑を奥に進んで行き庭園の北東に行くと東京湾に面し、岸壁に将軍お上り場という所があります。ここは船で浜離宮までやってきた将軍が上陸する場所で、一番利用したのは11代将軍家斉と言われています。
また、第二次長州征伐の途中で亡くなった14代将軍家茂の亡骸が江戸に帰ってきて最初に上陸した地がここでしたし、15代将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いで敗走してきた地もここだったそうです。なかなか歴史的な場所ですね。
お上がり場をすぎてしばらく歩くと水門があります。
この門を使って庭園内の池に水を引き入れているそうです。以前行った清澄庭園や安田庭園も昔は近場の川から水を池に引き入れていましたが、それらは今は引き入れていませんでした。現存する引き入れ式の庭園はここのみらしいです。
水門を過ぎると池があります。潮入の池の一角を成す横堀です。汐留の高層ビル群と東京タワーが背後に聳えてます。
池に沿って進みます。すると、だんだんと溶岩石のような壁岩が増えてきました。最初は静かで単調な広がりの池でしたが、次第に険しさが増していき、また池の流れも湾曲して奥行きと動的な雰囲気が出てきました。言うなれば上の写真では湾または大河だった池が下では川になっているのです。
湾曲しているのがよく分かります。
鷹のように見えますね。元鷹狩場だったに相応しい岩です。偶然でしょうけど。
御亭山です。皐月の生垣が綺麗ですね。標高3メートルほどの築山で、頂上から東には横堀と横堀越しに東京湾を、西には汐入の池と池に浮かぶ中島の御茶屋を、南には芝浦の街並み(天気が良ければ富士山も?)眺められます。
御亭山の頂上から西を眺めます。潮入りの池の奥に見えるのは中島の御茶屋です。遠方には高層ビルと東京タワーも見えます。
池のほとりに船着場のような場所がありました。江戸時代には宮家を招いて船上雅楽を開いていたそうなので、もしかしたらその人達用の船着場だったのかもしれませんね。
松越しに中島の御茶屋を。
池沿いに道を進んで中の橋にたどり着きます。潮入の池と横堀を区切っている橋です。
中の橋のたもとから横堀を。
反対に潮入りの池を。
中の橋を渡り、池の反対方向に進んで東京湾に出るとウォーターズ竹芝が見えました。ここのテラスで朝の情報番組(タイム?)のお天気コーナーを中継していますね。あれで奥に見える岸壁が実は浜離宮のここです。
中の橋まで戻り少し池沿いに進むと築山がありました。これは富士見山という築山です。昔はここから富士山が見えたのでしょうか?
富士見山の上から池を眺めます。
富士見山を降りて潮入りの池に架かるお伝え橋を渡ります。潮入りの池には御茶屋のある中島、小の字島があり、それらをお伝え橋で繋いで対岸へ行けるようになっています。
橋の上からさっき渡った中の橋を。
そして橋の中間にある中島の御茶屋へ。中島の御茶屋は本当にお茶屋になっていて中で飲食が出来る様になっています。でも客で一杯だったのでスルーします。
橋の先に見えるのが小の字島で、その奥にある建物は再建されたお茶屋群です。
小の字島へ向かいます。
なるほど。
お伝え橋を渡って対岸に着くと3つのお茶屋が立ち並んでいます。一番目の前にあるのが鷹小屋で、浜離宮が鷹狩場として使われていた当時にあった小屋を再現しています。
松の御茶屋と燕の御茶屋だったかな?11代将軍家斉が建てたものを再現しています。この他に鷹の御茶屋というのもありました。
御茶屋が立ち並んでいる所から池沿いに富士見山に向かってある小道を進みます。この先に徳川吉宗御手植えの楓の巨木があります。
小道から小の字島を。
花木園。
延遼館跡に広がる庭園。延遼館は
新緑の紅葉の巨木がカッコ良い。
所々に群生する菖蒲。来たのは5月だったのでまだ咲いて無かったのですが、この2週間後には見頃になってたそうです。
黒松と紅葉の共演が映えます。
日比谷公園のオクトーバーフェストに行ってきた
会場は日比谷公園の噴水広場周辺。中央の赤丸の場所で開催されました。日比谷公園は賑やかな有楽町や丸の内に近く、なのに隣には皇居があるので、賑やかなのに落ち着ける都会のオアシスとなっています。
せっかくなので公園を散策します。まずは心字池です。上の写真の右下にある横長の池がそうで、江戸城の堀を改修してつくられたそうです。石垣は当時のままのようです。
奥に見えるミッドタウン日比谷の空中庭園とレンガチックな建物とが公園の景色と上手くマッチしてます。都市部における公園と建物のあり方の良い例ですね。
日比谷公園は江戸時代には各藩の上屋敷が立ち並んでおり、江戸時代初期には仙台藩の上屋敷があって伊達政宗がこの地で亡くなったそうです。明治時代になると一時陸軍の敷地になったが直ぐに公園として整備され現在に至っているそうです。
湖面に並ぶ菖蒲らしき草や要所要所にある松の木が美しいですね。
園内には色んな展示がされてまして、これは南極調査隊が持ち帰ってきた南極の石です。
これは大正時代にミクロネシアのヤップ島で使われていた石貨で、当時の価値で約1000円ほどだそうです。こんなん運んで買い物してたんかい...
そして日比谷公園といえばサイレントサイレンの聖地の一つですよ。フェス会場までに聖地のシーンを通るのでついでに巡礼しました。
左上のシーンのところです。
左上のシーンのところです。
右上と左下のシーンのところです。
そして着きましたフェス会場です。飲むぞー!
マイゼル&フレンズのランドビア。色は少し弱めの黄金色でSRMは5〜6くらい。透明度は高い。口に含むと、モルトの甘みをしっかり感じ、直後に奥から甘みに包まれながら苦味が現れてきて口内全体にほど良く広がる。苦味が現れる時にかすかな酸味が隠れてるかも?鼻腔に一瞬かすかにハラタウっぽいフラワリーかつグラッシーな香りがぬける。
カールスブロイのウルピルス。色は少し弱めの黄金色でSRMは5〜6くらい。透明度は高い。ザーツっぽいグラッシーなアロマ。口に含むと、鼻腔にアロマ同様な香りがぬけ、口内ではグラッシーさと苦味とをスッとした冷涼さの中に感じ、苦味はフィニッシュまで長く残る。フィニッシュに近ずくにつれモルティーさを苦味の中にうっすらと感じる。
シュナイダーヴァイセのバイリッシュヘル。色は少し弱めの黄金色でSRMは5〜6くらい。透明度は高い。口に含むと、鼻腔にかすかにグラッシーさが隠れたモルトの甘い香りがぬける。口に含んでもアロマ同様のフレーバーだが、ほど良いキレと苦味を甘味と同程度のバランスで感じ、フィニッシュまでに苦味とスッと感がちょい強めで終わる。
カーメリテンのウアティプ。カーメリテンって飲んだ記憶があるけどブログを検索しても出てこないから飲んだことないのかも。謎。色は薄い黄金色でSRMは5くらい。透明度は多分高い。口に含むと、シュとした冷涼感と共に冷涼感を邪魔しない強さで苦味やボディを感じる。ファーストは少しボディ重たそうな感じだけど(相対的にであって実際には重たくないけど)ミディアムにはそこそこ軽くなる。
ヒルシュブロイのアルガイヤーヒュッテンビアー。色は黄色〜黄金色でSRMは5くらい。透明度は低い。口に含むと、ほど良くまったりした口当たりだけど、ほど良くしゅんとした爽快感もある。
ベルロのジャーマンIPA。柑橘香のするフレーバー。
アインガーのラガーヘル。このプラカップ、ワイのと違うんやけど。
もちろんオクトーバーフェスト恒例の会場を巻き込んだ音楽イベントも開催!いえーい!楽しい!
六義園
六義園は柳沢吉保が元禄時代に作庭した大名庭園です。明治時代まで柳沢家が所有していましたが明治11年に岩崎弥太郎が買い取り、昭和13年に東京市へ寄付され現在に至っています。
六義園の名の由来は和歌を分類すると6種類になる事から来ているそうです。歌や詩を愛した柳沢吉保らしい銘々です。庭園は紀州の和歌の浦(和歌の神を祀る玉津島神社がある景勝地)を模した他、有名な和歌集などに出てくる景勝地を再現しているそうです。
庭園の構成は、中央に大泉水という池、その池に2つの築山(妹山・背山がある中島、その背後に藤城峠のある島)、池の周囲にある蓬莱島や出汐湊といった見所(海の景)、池の周囲外にある水香江や滝見茶屋といった見所(山の景)で構成されています。
正門から奥に進むと内庭大門があり、ここから庭園が広がります。この門は岩崎家が所有していた時に建てたそうです。
どーん!これが有名なしだれ桜です。高さ15メートル、幅20メートルあるそうです。孔雀か鳳凰が羽を広げたかのような優美な姿ですね。
岩崎家が所有していた時には、この木の側に本邸屋敷が建っていたそうで、一時期、幣原喜重郎が仮住まいした事もあったそうです。屋敷の縁側からこの木を眺めてたのでしょうか。
しだれ桜を過ぎると広大な池泉回遊式庭園が広がります。庭内には和歌集などから再現した八十八景の見所が設けられており、おそらく一番最初に目に入る見所が出汐湊です。目の前に弧を描いて広がる池がそれです。出汐湊は船出のために満潮になるのを湊で待つ様子をイメージしており、さらには満潮=夜であることから、静かな凪の月夜を連想させます。
出汐湊の左岸の尖った辺りは玉藻磯、右上の岸辺のような所は中島で、その先端は片男波、玉藻磯と片男波の間は和歌浦と銘々されてます。玉藻磯は実在の和歌に出てくる言葉で選りすぐり集めた和歌を意味し、片男波と和歌浦は和歌の神が鎮座する紀州の景勝地です。極上の和歌に想いを馳せ、それを詠むのに相応しい絶景を表現しているのでしょうか。
玉藻磯の近くから中島を。真ん中に見える島が中島で、それに掛かる橋は田鶴橋と言います。この景色が紀州の和歌の浦にそっくりらしいです。また、中島には妹山と背山があり、左側が妹山で奥が背山だそうです。これも紀州の和歌の浦に実在する山をモチーフにしているそうです。
歩道に沿って歩いて行きます。右に見えるのが中島で、池の奥のやや中央にある岩が蓬莱島、その奥にある陸地が時雨岡、左に見える桜の木のある場所が指南岡です。時雨岡は大昔はナラの巨木が一本あっただけの場所だったので縁語の時雨から名付けられ、指南岡は和歌の技術が向上するのを願い名付けられたようです。
指南岡と時雨岡の間には千鳥橋が掛かっています。この奥に沢があり、そのそばに滝見茶屋が建っています。指南岡に灯籠が立っているのが見えますね。
歩みを進めると妹山背山が近づいてきました。松林が綺麗ですね。石組も美しい。
松林の麓に佐渡赤玉石が。良いアクセントになっています。
指南岡近くから中島を。左に吹上茶屋と吹上浜が見えます。中島の左側の松林には船着場があったそうですが今は撤去されています。そしてその先の湖面には臥龍石が見えます。船着場があった方が雰囲気が良くなりそうなのに...と思いましたが、臥せた龍の側に船があると龍が小物感たっぷりに見えるというか、目立たなくなるので無い方が正解ですね。
指南岡です。池の真ん中に写っている岩は蓬莱島です。
蓬莱島は岩崎家が所有していた時期に設けられたそうです。なんか南紀白浜の円月島に似ていますね。この岩の北に和歌の浦があるので、紀州繋がりで南のこの場所に円月島を模した岩を置いたのかもしれませんね。
蓬莱島がある事で、ただの湖面が南紀白浜の海に見えてきました。池の奥に見える島は中島で、橋で繋がってる島は中島の奥にあるもう一つの築山です。
中島にある松です。見事です。根元にさっきの佐渡赤玉石がチラッと見えます。
歩みを進めます。
指南岡を過ぎて滝見茶屋まで来ました。この奥に三尊石組と水分石があるそうなんですが、人が多くて奥まで行けませんでした。残念。
小川治兵衛とは全く関係ない庭ですが、治兵衛っぽい滝と沢の造り方してます。良いですね。
ここから道が二手に分かれます。一つは時雨岡の方に向かい、もう一つは尋芳径という小道があります。今回は草花に囲まれた小道というコンセプトで作られた後者へ進みます。すると、桜の大木が現れました。
周囲には芽吹いた紅葉の木々も立ち並んでおり、陽の光に当たり透けた青紅葉の葉と桜のピンク色とが創るコントラストが綺麗でした。
水香江。昔は写真中央の少し窪んでいるところが小川になっており、川面に蓮の花が咲いていたそうです。窪みの所々にある岩や草列が往時の川の流れを偲ばせます(まあ草は最近植え込んだんでしょうけど)。
この辺りは沢になってたんでしょうね。当時の姿を再現して欲しいですが運営コストが跳ね上がるから難しいでしょうね。
今の水香江は紅葉の名所とのこと。たしかに周囲は紅葉に囲われ、芽吹いた葉が陽の光に照らされて綺麗な薄緑色を放ってました。
この時期しか見られない紅葉の花。
ズンズン進んでいきます。この橋を渡った所が、中島の奥にあるもう一つの築山です。
築山の頂上から。池の真ん中にあるのが中島です。さっきの橋の少し先にからここまでの登り道が藤城峠で、紀州の藤城峠をモチーフにしているそうです。
中島です。
庭を一周しました。
枝垂れ桜のそばにある大紅葉です。芽吹きかけてるためか赤褐色に見えます。
良い庭でした。
旧古河庭園
この庭園は古河財閥第三代当主の古河虎之助が大正3年に造築しました。庭園内には母屋である洋館、西洋庭園、日本庭園があり、いずれも戦火を免れて現存していることから国指定の名勝になっています。場所は山手線駒込駅から約1キロほど北に行ったところにあります。
正門を通って道なりに進むと洋館があります。この洋館を設計したのはあのジョサイアコンドルとのこと。
洋館のそばに貴重な佐渡赤玉石が沢山ありました。修繕工事のために庭から一時撤去しているのでしょうか?
予約をすれば洋館内に入れるのですが、知らなかったので予約しておらず入れませんでした。残念。
洋館の裏に回ると西洋庭園がありました。古河庭園は台地の斜面に沿って造築されており、台地の上から下に向かって洋館→西洋庭園→日本庭園の順に築かれています。
洋館の眼下に広がる西洋庭園です。その向こうに森が見えますが、そこから広大な日本庭園が広がっています。
西洋庭園にはバラ園、ツツジ園があります。
西洋庭園を抜け日本庭園のエリアに入ります。ここからまるで境界線を示すかのように木々が生い茂り、周囲の空気がスッと変わります。
境界線となるものがもう一つありました。黒ボク石積です。人の手が入りキチンと整備された西洋庭園に対し、荒々しい岩肌が自然を感じさせます。また、周囲を囲む木々と、それがつくる木陰が『ここからは違う空間』だと無意識に感じさせます。
黒ボク石積から少し歩くと渓谷があります。全体では落ち着いてるのに要所要所で荒く無作為な雰囲気があり、自然な渓谷を上手く表現しています。この緩急のつけ方と無作為な雰囲気が良いですね。と言うか妙に既視感があるというか、心惹かれるものがあるな、何でだろう?と思っていたのですが...
...それもそのはず、行って初めて知ったんですが、実はこの日本庭園を作庭したのは七代目小川治兵衛でした。あの緩急のつけ方や自然感が七代目小川治兵衛らしい雰囲気だったのでピンと来たんですよ。まさか東京でも作庭していたとは。調べてみると治兵衛は1918年にこの庭の作庭に取り組み翌年に完成させています。ちなみに同時期に千代田区駿河台の西園寺公望邸と港区の村井吉兵衛邸の庭も作庭しています。
渓谷を過ぎると池が現れました。この庭園は池泉回遊式庭園になっており、中心にある池は心字池と銘々されています。
右に洲浜と大灯籠、左に中島が写っています。
洲浜と磯渡り。
洲浜の右側には築山があり、そこに枯滝があります。築山で湧いた水が枯滝に流れ、そこから州浜に流れ出て池に広がるという構図になっています。
枯滝。単なる滝組みではなく渓谷を表現してそうですね。流れが幾重にも湾曲しているので奥行きを感じさせられます。さらに築山の頂上には十五層塔があるので、いっそう深山幽谷を連想してしまいます。
芽吹いてる紅葉が綺麗。渓谷の石組と相まって鬼怒川の龍王峡を連想してしまいました。
枯滝の前から洲浜と石灯籠を。石灯籠を湊に立つ常夜燈、心字池を大海、中島と岩を大海に浮かぶ島々に見立てられますね。瀬戸内海にありそうな風景です。また『心』という文字を思い浮かべて無我の境地に至ってみるのも良いですね。庵があれば籠って座禅でもしていたいです。
築山の上から洲浜を。
別角度から。心字池の様子がよく分かります。
築山を降りて池の周囲に沿って歩を進めます。この角度だと洲浜と石灯籠、そして池にある岩を多く眺められるので、大海に浮かぶ島々に見立てた様子をよく感じられます。
斜幹に見えて懸崖の赤松?
松の後方に中島が、さらに中島の後方には洋館が見えます。
歩みを進めるとこんなものが。崩石積という石組み技法だそうです。この奥に茶室と侘びた雰囲気の庭がありますが修繕中で入れませんでした。残念。
ちょうど洲浜の反対方向に来ました。
地面から2メートルほど落ち込んだ所に沢があり、奥に滝がありました。全体の雰囲気は渓谷といった感じです。でも全体的にちょっと貧相な感じがするので、もしかしたら修繕途中なのかもしれません。沢や滝周囲の岩の辺りにシダ類を植え、全体ももう少し木々に覆われて軽く鬱蒼とした感じになってたらもっと良い雰囲気になると思います。
滝は10数メートル上方から台地の傾斜に沿って流れており、写真の部分で数段に伝って流れ落ちる構図になっています。治兵衛らしい特徴が出ています。
これで日本庭園を一周し終わりました。池へのアプローチにある渓谷、枯滝の渓谷、そして大滝の渓谷と、多種多様な渓谷美を楽しめる素晴らしい庭園でした。
旧安田庭園
この庭園は江戸時代に譜代大名・本庄宗資が下屋敷内に造築しました。後に隅田川から流れを引き込んで潮入池回遊式庭園として改築したのち、幾度か持ち主が変わって、大正時代に東京市(現在の東京都)へ寄付されます。ですが関東大震災で跡形もなく消失し、昭和になって地割りや石垣の跡をもとに造築し、現在に至っています。
ところで庭園名の安田の由来ですが、東京市に寄付される前の所有者が安田財閥創業者の安田善次郎だったのにちなみ旧安田庭園と名付けられたそうです。場所は両国国技館の隣にあり無料で入れます。ちなみに庭園の敷地内には刀剣博物館もあり、こちらは有料となります。
それでは庭園を鑑賞しましょう。回遊式庭園なので庭の中央に池が広がっており、その周囲を散策できるようになっています。池は心字池と銘々されており、以前は側にある隅田川から流れを引き込んでいたそうですが、昭和中期に川の汚染が酷くなると引き込むのを止め循環させるようになったそうです。
池の中央にある中島。鶴島か亀島か分かりませんが、どうやら一つしか無いようなので蓬莱山ではないかと思います。
磯渡りのような飛石付きの洲浜。ここを通って奥に進みます。
洲浜の元にある護岸石組。そういえばこの池は隅田川からの潮入を再現するために定期的に潮位が上がるそうなんですが、潮位が上がり石群の麓まで水が広がった姿はまるで大海に浮かぶor大海の遥か彼方にそびえたつ山々のようにも見えますね。
洲浜を渡って来た道をパシャリ。左側に見える灯籠は園内に3つある大灯籠のうちの一つです。
歩みを進めていると舟着場のようなところが。
その先端に立ち右側を眺めると滝石が見えます。滝石の上には三尊石のような石組が見えますが、滝石の前を見ると鯉石らしき岩があり、そして三尊石らしき石組の麓をよーく見ると複数段になってそうなので、これらは龍門爆だと思います。
滝石の前を鯉石が背びれを元気に漂わせながら泳いでいます。滝を登る機会をうかがっている様に見えますね。
舟着場の反対側にある謎の水門。説明板を読むと、なるほど、これを使って隅田川から流れを入れていたのですね。
水門の側で鴨?が何かを食べています。
すいすい〜っと池に出て行きました。
歩みを進めて庭の南西最奥へ。
庭の南西の最奥から中島を眺めます。ビルとビルの間にスカイツリーが見えますね。ところでこの中島、岩に囲まれている姿がまるで亀の甲羅を連想させるから亀島だと思えるし、木々の広がりから鶴島だとも思えるけど、どちらにせよ対を成す島が見当たらないからどちらでもなく、やはり蓬莱島じゃないかなと思います。
けどこの角度から見るととても亀っぽく見えるし、蓬莱島にしては何というか貧相なんですよね。もしかして亀島が正解で、右側に見える岸辺を鶴島として扱ってるのかな?洲浜に見える灯籠を鶴首石に見立てて鶴島にしてるとか?いや無理があるか。
中島の周囲には鴨や鷺?が何羽も寛いでました。
来た道と反対方向に進んで庭の北東に行きます。右に見えるのが中島で、中央の洲浜がさっき鶴島扱いなのかなと言った岸辺です。足元にある平らな岩場は磯渡り付きの洲浜の一部です。
その磯渡りに沿って庭の奥に行ったのがこちら。
左手前が鶴島か?と思った岸辺で、右側に見えるのが中島、奥にもう一つ島のように見えるのは島ではなく岸です。その岸と中島の間の奥に龍門爆があります。写真で見ると何てことないけど実際はなかなかの景観です。
鶴島扱いかもと思った岸辺。右側に洲浜と灯籠があり、左側には橋が架かっています。橋が架かってるから島じゃないの?と思うでしょうが、奥で陸地と繋がっています。
磯渡りを道なりに進んで庭の北東に着きました。ここにも洲浜と大灯籠があります。ここから中島や、島かと見紛う岸々を眺めると、それぞれの中央に松の木がデーンと聳えていることから実は全てが蓬莱山をイメージしているのではないかと思うようになりました。
上の写真の灯籠の横辺りから中島を正面に向かってパシャリ。右側に写ってる長い磯渡りを辿って来ました。
舟着岩のような長い岩の先端方向の最奥に龍門爆、右に中島、左に鶴島扱い?の岸辺があります。この位置から中島を見ると鶴首石に見立てられる岩が見え、松を両翼に見立てられるので鶴島のようにも思えます(けど全体の印象は鶴でも亀でもなく蓬莱山でもないただの単調な島、だけどあえて言えば亀なんです。笑)。また、鶴首石のそばと岸辺の先にある岩が、鯉石に見立てようと思えば見えるので、奈良の西南院大石庭のような龍門爆に向かう鯉のようにも見えます。
もしかしたら見る場所によって鶴島にも亀島にも蓬莱山にも、はたまたただの自然風景にも見えるよう設計しているのかもしれませんね。色んな姿を楽しめて良い庭園でした。
清澄庭園
清澄白河にある清澄庭園に行って来ました。
この庭は1880年に岩崎弥太郎が社員の慰労目的に造築しました。後に弥之助が改築し現在の姿のベースを作り、さらに後に東京都に譲渡されてから改築され現在に至っています。
この地には元々、下総関宿藩主・久世氏の下屋敷があったそうで、弥太郎は荒廃していた屋敷跡を周囲の土地と共に買い取り庭園を造築。社員の慰労目的に造築したので深川親睦園と命名されていたそうです。作庭指揮は庭園鑑賞が唯一の趣味だった弥太郎が自ら行っており、随所に弥太郎のこだわりが見られる庭になっています。
庭には日本全国から集めた名石が要所に配置されているそうで、入口のすぐ側からありました。ここから庭に向かって路地を進んで行きますが、この間にも沢山の名石がありました。
庭園内に数多く配置されている名石の中で、最も貴重なのがこの佐渡赤玉石だそうです。
庭園が見えてきました。
見事な池泉回遊式庭園ですね。池には3つの島があり、数寄屋造の建物が池に迫り出しています。池は大泉水と命名されており、以前は隅田川から水を引いていたそうですが今は雨水だけでまかなっているそうです。
パンフレットに全景図がありました。こんな感じの庭です。
右にある数寄屋造りの建物は涼亭。1906年に極東視察の途中で日本に立ち寄ったイギリス陸軍元帥キッチナー将軍をもてなすため久弥が建てたそうです。外見は数寄屋造りだけど内部は天井の高い西洋風でテラスにテーブル席を並べて料理を楽しめるそうです。左にある山は富士山と命名されている筑山です。それでは池に沿ってお散歩しましょうか。
まずは大磯渡りと命名されている、池のはじに置かれた飛石群を渡ります。なかなかの迫力ですね。
紀州青石や伊予青石で作られた築崖も大迫力!特に縦縞の入っている紀州青石は長野の白糸の滝を思わせる紋様で見事です!懸崖の松も良いですね。
長瀞峡。大泉池の反対側に隠れるようにあります。深く静かな渓谷を連想させこちらもなかなか良い雰囲気です。
涼亭の前に大灯籠が見えますが、実は大泉池にある松島に設けられています。
伊豆川奈石の磯渡り。
涼亭に近づいて来ました。
池には鴨?が多数飛来しています。
今度は根府川石で作られた磯渡りです。
涼亭です。予約しないと入れない様です。欄間や玄関のガラスは建築当時のままらしいので見てみたかったです。
枯滝の石組。州浜から上流に行くにつれ荒々しくなっており長大な大河を連想させますね。
築山の富士山。造築当初は山の周囲に木々は無く、まさに富士山のように聳え立つ勇姿を拝めれたそうです。また、山腹にはサツキを列を配して植え込み、富士山にかかる雲海を表現しているそうです。
山頂には小岩のみが敷かれており、険しい富士山の頂上を表現しています。
船着石。デカい!
【番外編】タカラ湯
北千住にあるタカラ湯に行ってきました。
この銭湯は、綺麗な庭と縁側があることで有名。何度もテレビや雑誌に取り上げられ、ドラマなどのロケ地としても使われている有名な銭湯です。創業は昭和2年という老舗で、昭和13年に現在の地に移転し営業しているそうです。移転時に建てられた建物はまるで神社か天守閣かの様な千鳥破風がついており見事です。場所は、北千住駅から徒歩15分ほどの住宅街の中にあります。
これが有名な縁側です。男湯の脱衣所に縁側があり、そこから庭を眺められる様になっています。よく磨かれた床と長椅子が綺麗に光っていますね。縁側を奥に進むと池泉式の庭がありました。正面にあるガラス壁は実は男湯の一部でして、薬湯や水風呂があります。ちなみに浴場には4つの湯船があり、一つには座式ジェット風呂が、もう一つには気泡風呂が、そしてもう一つには薬湯が、最後の一つには水風呂があります。
風呂上がりに長椅子に腰掛けて、風にあたりながら庭を眺めます。たまに聴こえるチリンチリンという風鈴の音が涼やかで良いですね。この日は真冬の12月27日でしたけど(笑)、よく温まった体にはちょうど良かったです。
池には鯉がたくさん泳いでいます。
ロビー横にも縁側がありました。ロビーでビールやジュースを売ってるので、夏の風呂上がりにはここでビールを飲みながら涼んでみたいです。
二条城「二の丸庭園」
京都の二条城に小堀遠州が改築した庭園があるので行ってみました(と言っても一年半ほど前の話ですが)。
二条城は1603年に徳川家康によって築城。庭園もこの時に作庭されていましたが、1626年の御水尾天皇の御幸に伴い、徳川家光の命に寄って小堀遠州が庭園と御殿の一部を増改築。その後、増設された御殿の一部は仙洞御所として移築され、現在に至っています。
入口となる東追手門。
・・・の、正面に向かって左下の辺りにある、何故かたった一羽だけいる千鳥の装飾。有名なこいつを発見できてラッキー。
二の丸御殿前の唐門。
二の丸御殿には入らず左に進んでいくと、二の丸庭園、通称・八陣の庭があります。
これが二の丸庭園。池泉廻遊式庭園です。御幸時には左側奥に行幸御殿が建てられ、さらに御殿から池の先まで水亭が伸びていたそうです。また、目の前にある舟石は後世に加えられたものだそうです。
庭の中央に位置する蓬莱島。庭は、黒書院と大広間と行幸御殿とで三方から囲われるようにしてあり、黒書院と行幸御殿とは相見える位置にありました。そこで、黒書院と行幸御殿との間に、几帳の役割となる蓬莱島を設けたそうです。
黒書院
蓬莱島の左右に亀島と鶴島があります。
石橋は後世に架け替えられたもので、遠州が造った当時は丸みを帯びた木橋だったそうです。
この滝も遠州が造った当時とは位置が異なっており、明治期に作られたそうです。
ちなみに、こちらはライトアップされた夜の二の丸庭園。
高野山福智院「遊仙庭」「愛染庭」「登仙庭」
高野山の福智院に重森三玲が作庭した庭があるので見てきました。
これらの庭は松尾大社とともに重森三玲が最後に手がけた遺作となる庭で、1973年に登仙庭と遊仙庭を、1975年に愛染庭を完成させています。と言っても、愛染庭の作庭途中に氏は亡くなっており、愛染庭は松尾大社とともに氏の亡き後に門人たちが完成させています。
遊仙庭。この庭は元々あった池を埋め立てて枯山水にした庭で、三方が正面になる中庭です。7・5・3式で白砂と赤砂そして苔の対比が目立ち、蓬莱深山をイメージさせる庭園でした。
登仙庭。この庭は池の周囲の州浜を石とコンクリで作り、モダンなデザインになっています。池には鶴亀島が2つあり、その背後には大刈込の築山が。そして築山の上部には蓬莱式の石組み、そこから左手下部に向かって龍門爆があり、龍門爆が池と繋がるという形式になっています。
愛染庭は、格子状に組まれた蔓石の敷石に赤砂と白砂を敷いて赤白格子模様にしている庭と、皐月で出来た築山連山の刈り込みに石組みを配して蓬莱神仙を表現した庭とで出来ています。重森三玲はこの庭に石組みと敷石を配して下山し、その翌年に亡くなりました。
この日は宿坊に宿泊。というか、高野山にあるほとんどの庭は宿坊に泊まらないと見せてもらえない。福智院には温泉があるので最高でした。
夕食朝食はもちろん精進料理。どの料理もかなり美味かった。